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西洋と日本の「性の描き方」は、なぜ違うのか

『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』と『全裸監督』。

どちらも性を正面から描いた作品として世界的に注目を集めましたが、
そのアプローチはまったく異なります。

この違いを掘り下げると、西洋と日本の性文化が持つ深い哲学の差が見えくる気がしています。

西洋の性表現——美学と「欲望の正当化」

2015年に公開された映画『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』(原作:E・L・ジェイムズ)は、
SM的な関係性を描きながらも、その映像はあくまで「美しく、洗練されたもの」として表現されました。

女性監督サム・テイラー=ジョンソンによる映像は赤を基調とし、
カメラワークは彫刻のようなボディラインを芸術的に捉えることで、
「性的行為」を一種の美術品のように昇華しています。

これは西洋の芸術的伝統とも無関係ではありません。

ルネサンス絵画におけるヴィーナスの裸体、19世紀の印象派が描いたヌード、ロダンの彫刻……
西洋では、性や裸体を「美の象徴」として正面から扱う文化が長く続いてきました。

性的欲望を「恥」ではなく、「人間の美しい衝動のひとつ」として位置づける視点は、
文学・映画・アートに通底しています。

日本の性表現——「人間らしいエロ」という独自の哲学

一方、Netflixドラマ『全裸監督』が描いたのは、
AVの帝王・村西とおる氏の破天荒な人生です。

作品の中で性は「美化」されるどころか、
泥臭く、滑稽で、切なく、人間くさいものとして描かれます。

日本の性表現の特徴として、研究者や批評家が指摘するのは「羞恥」と「物語」の重視です。

江戸時代の春画を見ても、そこには性行為の場面だけでなく、
キャラクターの表情、背景の情景、ユーモアが込められていました。

日本のエロティシズムには、
「性がいかに人間の弱さや滑稽さと隣り合わせにあるか」を描く文脈があり、
それが独特のリアリティと共感を生んでいるのではないでしょうか。

規制と表現の逆説

興味深いのは、日本は映像の性表現において法的規制が厳しいにもかかわらず、
「エロ文化」そのものは極めて豊かに発展してきたことです。

江戸時代の春画も、現代のコンテンツも
制限があるからこそ、表現者は「見せない美学」「想像させる技法」を磨いてきたと感じます。

漫画・アニメ・文学・演劇など多様なメディアにわたる
「日本のエロス」は、むしろその規制と創意工夫の産物とも言えます。

西洋が「見せることで美化する」アプローチを取るとすれば、
日本は「見せないことで想像を刺激する」アプローチに長けていると言えるかもしれません。

どちらも、人間の本質を映している

BiBiOのブランドとしての立場から言えば、
どちらの文化が優れているという話ではありません。

西洋的なロマンティックな夜も、日本的な親密で人間らしい生々しい関係性も、
それぞれに人間の性の豊かさを映しています。

大切なのは、パートナーとどんな時間を過ごしたいかを、ちゃんと考えること。

たまにはキャンドルとワインで演出したロマンティックな夜を。

日常の延長にある、肩の力を抜いた親密な時間を。

どちらも素敵な選択肢です。

BiBiOは、そのどんなシーンにも静かに寄り添える存在でありたいと思っています。

参考:映画『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』(監督:サム・テイラー=ジョンソン、2015)
Netflixドラマ『全裸監督』(2019)
日本の春画とエロティシズムに関する美術史的考察

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